音無

青ざめた心で赤い恥を受け取れなくなったのは、いつからだろう。正面を避けるように身体を捻り、路地裏に自らの立ち位置を確立した、あのわざとらしい安寧を、逃亡だと見做さ無くなったのは、芸術だと認め諦めたのは、随分と前のことだった気がする。少なくとも、それが普通のことであるとーーーーーつまり芸術とは繊細であり、繊細とは世間からの逸脱でありーーー逸脱とは光悦の孤独であることーーーーが僕の心に浸透するまでには、それなりに猶予と留意が残っていた。そして、僕は気が付かないうちに決断をしたらしい。世間とは馴染めない。僕は恵まれていない。何もかもを壊そう。抽象の世界に身を置くことに、僕は一つとも逃げの姿勢を覚えることが出来なかった。それは多くの芸術家が、そのようにして逃げ、そして偉大になったと歴史が祭り立てるせいなのだろうと、僕は今更になって気がつくらしい。

情けない。結局、僕は歴史の世俗に逃げている。ませた矜持に小さなくなった自我。僕は他人ばかりを気にしている。僕は僕が気にする他人ばかりで、他人が気にする僕を僕は知らない。だから、こうも情けない。挫けやすい。認めることの風貌を僕は知らない。潔ぎが良いことの端正から目を外している。僕は僕の自画像に留まっている。そして、そこがいつまでもの天井だと思い込んでいる。

そうして、天井は翻る。井戸だ。井戸の底は深い。僕は沈んでいく。ゆったりと。ゆっくりと。こうも惨めでこそ、未だ這いあがろうとしない。僕はまだ格好をつけている。体裁の整った井戸からの抜け出し方を探っている。僕は僕の殻のひびを恐れている。仮初の温もりを失うことを怖がっている。

だから、今。僕は氷河を知る。それはとても長く深い氷河だ。今日を眠る。明日はやってくる。目の前には、もはや氷河しかない。もはや、僕は地を舐め、過去の壮大を溶かすしかない。

そうか。雨は嫌いか。

首筋の向こうに首筋の向こうに首筋の向こうに、振り向いているあの表情がどうもきな臭いことを、僕は醤油の袋を破りながら小粒納豆をかき混ぜながら思い返し続けている。意識的に記憶の底から釣り糸を引っ掛けるように、ひょいっと思考の域に引っ張り上げた彼女の微笑みの真意。僕はそれをあの日の一瞬のうちに探っている。

人並みに直観が鈍い僕に眼聡い彼女が与えた違和感に、何かが含まれているような気がして仕方がない。むず痒いまでの秘匿感。彼女がその箱をわずかに開いたような。それは例えば。大丈夫?の三文字を僕の口から望んでいたような。僕が守るよ。ありきたりな綺麗事を欲しがっていたような。奥底に寝転んでいる純真さを一瞬だけ、世間の波に紛れて放射したような。間違いなく、あれは、そういった類の寂しさであった。涙などとうに枯れた後の苦しさであった。

それから僕は僕の道を歩んでいるし、彼女もまた彼女の道を歩んでいる。別に、今になって思い出すのは、彼女の類稀な気遣いだったり、無理してでも空気を弾ませようとする他人想いだったりするけれど。ここに後悔がある訳ではない。あの時もっと。なんてこと、あの時に思えるはずもなかったから。成長というものは、時に、たいそう長い時間を要するものなのだ。そして今になって、僕はそのことに気がついたのだ。はっと、自らの愚かさと自己本位さに打たれるように。僕は彼女のことが好きなのだ。そして、今でも、彼女を好きでいるのだ。人として。彼女は迷いながら生き抜く人であるべきであるから。

机の前、椅子の上。

書こうと思うと、書けない。感じようと思わないとも、感じるというのに。例えば、細かい雲の内に水滴の思念を読み取ろうとする自らの思念を描こうと思うと、僕は誰に媚びついているのだろうと疑問が過ぎる。

そうじゃないだろ。言葉は書くために書く訳ではないだろ。はるか昔の声が細い機動的喜怒哀楽を通り越して、三十センチメートル上の僕の耳鼻に届くと、僕はタイプする指先を止めている。書くしかないために、書くのではないかと。消去法生命の先にある想いにこそ、半生と影法師を包めた「人間」が宿る。そうだろ? と俺は誰かに聞いてる。返事は月が東から昇っても、まだ返ってこない。そうか。俺は思う。俺は今孤独だからこそ、俺の道を歩めているのだと。柔く脆いこの信念を貫くには、孤独しか道はないのかと。

気がつくと、今まで隠されていた孤独の先の微笑みみたいなものを俺は眼の端っこの方で捉えることが出来ている。歴史の中に隠れている門外不出の孤独と手を繋いで輪を作ってみると、今度はどうだろう。少しは僕の世界に対する堪忍なる袋の嵩が増したような気もする。月が東に昇り、日が西に沈むように。孤独を深めると、浅瀬の愛が恋しくなってしまうのは、隠しきれない性欲のせいだろうか。あるいは・・。

<<一年と十一ヶ月というやつは<<

あれはダージリンが苦かったのか。それとも、自らが浮かべる苦笑いを俯瞰している自らの感傷が若かったのだろうか。多分、後者なのだろう。ある程度までの形容詞の多さは曲がり角に待ち受ける事実に相応しいと歴史は決めているから。

まぁいい。砂時計からゆっくり落ちていくさらさらとする砂粒を文字通り粒立てて見つめていると、彼女は堰を切ったように、話を切り出した。彼女は文字通りガール・フレンドで、ガール・フレンドから切り出された話というやつは、彼女の井戸の底に永らく沈んでいたせいで生々しく主観性に富んでいた。

要約をすれば、彼女は僕の致命的な一点のみを改善してはくれやしないかと頼み込んできたのだ。いや、頼み込んできたというよりは、「そうしなければ、私はあなたと別れるわよ。」毅然と勝ちん気さえ含んでいたかもしれない。彼女にとって、今の僕と別れることは退路ではなく、多少なりは身近で曲がっているにせよ、遠くの方では苦労なく真っ直ぐ続いている進路だったのだ。そして、彼女が指摘した僕の致命性は、僕自身が自覚していた致命性に他ならなかったから、僕の唇からはあの苦い微笑みが溢れているのだ。「努力をしてほしい。そしてその物事に没頭してほしい」換言すれば、それだけのことだった。「一人が二人と調和して続いていく暮らしにあなたは必要よ。あなた以上に相応しい人なんていない。そこまで断言出来るわ。でも二人を一人と一人に分割する時間も私には必要なの。その時、あなたは余りに未熟なの。」彼女は婉曲に婉曲を塗った言い方で、僕の心に生涯の十字架を背負わせないよう取り繕っていたが、彼女の主張の深度はかつてないものだったので、婉曲に迷ってずるずると論旨が逸れていくことは決してなかった。

「いつまで餓鬼なのよ。個として自立しなさいよ。」寝る前に、彼女の婉曲を省いた真実が頭を過ると、劣等感は取り留めのない飛沫となって、僕の神経を一つ一つ起こした。そして、今、僕は文字を書くことになっている。いつからだろう。芸術は怠惰の袋小路だと気がつき、躍起になって出口のない壁と頭突きを繰り返すようになったのは。寝むれないけど、寝るしかない夜があって、多分それは今日なので。寝ます。みんなも寝れるといいね。おやすみ。ね。

少し疲れた。

別に生きている意味とか、死んでいく将来とか、淡麗じゃない憐れみの容姿だとか、そういうありきたりな階級の低層にいることを自らが自らの内に自覚することで、人生における怠惰を肯定しようとしているわけではない。

ただ少し疲れたのだ。その理由を分解するなら、例えば、日当たりの煩い窓辺だとか、辺りを選んで赤くなる頬のしおらしさとか、擦れた亀頭を撫でる把握された余裕の誇示だとか、その辺の些細な羅列になるのだろうけれど。理由と理由と理由とを合算した結果が必ずしも現状を完璧に考慮する感情と一致しているわけではないのが、人間的不合理性で、またある人にとっては、恋人の意地らしさであったりする。そうして論理と直感の隙間にふっと吹きつける隙間風は北風であると相場が決まり、あるいは僕は疲れているのかもしれない。いやそうじゃない。のかもしれない。ただ、僕は風という風にあらゆるものを吹き飛ばされていたいのかもしれない。

少し疲れた。おやすみ。

とある一日二日と硫黄の匂い

風が少し強い日に湯沢高原に出掛けて、一人でぽつんと駅近の旅館に泊まった。凄く素敵な宿に、凄く暖かい足湯に、びっくりするくらい美味しいかぼちゃのマドレーヌがあって、温泉と饅頭をひとしきり齧ると、硫黄の効能と饅頭の舌鼓にほんの一時浸れた。

なんだかほっこりして、なんだかちょっと涙が溢れて、これまでの過程で幾つのものを失っていることに気がついて_それは大抵人として生きる上で凄く大切なもので___僕にも昔こうして大切にしてた人がいた。結局、今日も過去に生きているのかもしれない。

あるいはそうして、今日も僕は言葉を書けているのかもしれない。おはよう。おやすみ。

僕が僕なら

あんまり分からないし、分かりたくもないし、でもここにはやはりいて、それを一人で抱えるにはあまりに脆くて、だからこうして、今、言葉を書いている。